富を手にしても越えられないもの――『グレート・ギャツビー』村上春樹訳
『グレート・ギャツビー』は、村上春樹さんの翻訳で読んだ。村上さんが大切にしてきた作品だと知り、それなら読んでみたいと思ったのが、手に取った理由の一つだった。
豪邸、パーティー、きらびやかな服を着た人たち。そんな華やかな世界の話として読み始めた記憶がある。けれど、僕に強く残ったのは、その華やかさよりも、人が生まれた場所によって立てる場所まで決められてしまうような息苦しさだった。
パーティーの中心にいるのに、満たされない
物語は、語り手のニックが隣人ギャツビーを知るところから進んでいく。ギャツビーの屋敷には多くの客が集まり、夜ごと賑わう。こんな生活ができるほどの財産を築いたのなら、もう十分ではないか。最初はそう思ってしまう。
でも、ギャツビー自身がその場を心から楽しんでいるようには見えない。人を集め、明かりを灯し、賑やかな夜を繰り返す。その真ん中に本人がいるのに、どこか一人だけ取り残されているような寂しさがある。
彼の思いは、かつて愛したデイジーへ向いている。デイジーはすでにトム・ブキャナンと結婚している。ギャツビーが手にした財産や屋敷は、彼女との距離を埋めるためにも必要だったのだろう。そう考えると、パーティーの華やかさまで少し違って見えてくる。
金を持っていても、同じ場所には立てない
いちばん苦しく感じたのは、ギャツビーが富を築いても、デイジーやトムが属する世界との隔たりが消えないことだ。
同じように豊かに暮らしていても、もともと裕福な家に生まれた人と、後から財産を得た人は同じようには見られない。持っている金額だけでは埋まらない差がある。ギャツビーは自分の力で生活を変えた。それはすごいことのはずなのに、その努力だけでは越えられない壁が残る。
もちろん、ギャツビー自身もデイジーへの思いの中で、過去を理想化していたのかもしれない。それでも、彼だけが夢を追う側に立ち、恵まれた側の人々には、失敗しても戻れる場所があるように見える。その違いがつらい。
もし僕が、この物語の時代に、その世界の外側に生まれていたらどうだろう。何かを望んで努力しても、生まれによって行ける場所がほとんど決まっている。生まれてから死ぬまで、見える景色が大きく変わらないかもしれない。そう想像するだけで苦しくなる。
村上春樹訳で読んだ記憶
村上春樹さんの訳文は、彼の著書を読み慣れているからか、僕にとっては自然に入ってきた。別の翻訳ならどう訳したかとか、言語的にはどちらが正しいか、ということよりも、いつの間にかその世界に自然に入り込めたかどうか、結果的にそこが肝心なんだと思う。
そして華やかな場面に触れている間も、ずっとどこかに寂しさを感じていた。
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グレート・ギャツビー