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『脳が冴える15の習慣』を読んで · 読後エッセイ・日々の経験

散歩は外と交信し、ジョギングは内省する――『脳が冴える15の習慣』を読んで

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妻が何かを話している。

声は聞こえている。言葉も一つひとつ耳に入っている。それなのに、何を言わんとしているのかが分からない。

外国語を聞いているわけではない。難しい話をされているわけでもない。ただ、言葉と意味が頭の中でつながらないのだ。

私はたぶん、「なんの話だっけ、それ」という顔で、妻のことを見つめ続けている。

妻には、こちらが分かっていないことだけは分かるらしい。同じ説明を繰り返すのではなく、言い方を変えたり、別の角度から話したりしてくれる。

すると途中で、急につながる。

「ああ、そういうことか」

そこでようやく、話の意味がひとつの像を結ぶ。

自分の頭が冴えていないと感じるのは、何かをきれいさっぱり忘れたときより、こういうときかもしれない。

歩くことについて思い出した

築山節さんの『脳が冴える15の習慣』を読んだとき、「やっぱりそうか」と思ったことがある。

頭の働きは、頭だけをどうにかしようとしても整わない。生活のリズムや、体を動かすことのような、ごく日常的な習慣とつながっている。

なかでも自分の実感に近かったのが、歩くことだった。

といっても、妻の話が理解できないたびに、「よし、散歩へ行こう」と立ち上がるわけではない。思い出せないから歩く、ということもない。

逆なのだ。

散歩をしているときは、そもそもあの、言葉と意味がつながらない感じになりにくい。

散歩は外と交信する

私の散歩には、スマホも音楽もない。

道を歩きながら、目に入るものを見る。人の動きや、店先の様子や、その日の空気をなんとなく受け取る。何かを考え抜こうとするのでもなく、目的の情報を集めるのでもない。

散歩は、外と交信する感じがする。

一方、ジョギングのときは音楽を聴く。

足を前へ出し続けながら、意識はだんだん自分の内側へ向かっていく。仕事のことや、まだ形になっていない考えが、音楽と呼吸の奥でぐるぐる回る。

ジョギングは、内省する感じだ。

外の世界へアンテナを伸ばす時間と、自分の中へ潜っていく時間。そのどちらも、机の前で難しい顔をしているだけでは得にくい。

歩いているときの、私の実感

もちろん、散歩をすれば頭が必ず冴える、と言いたいわけではない。歩けば妻の話を1度で理解できるようになる、ということでもない。

ただ、自分の場合、頭の中だけでどうにかしようとすると、かえって言葉や考えが絡まることがある。体を動かし、視線を外へ向けているうちに、少しずつ流れが戻ってくる。

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