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『月の満ち欠け』を読んで · 読書感想・書評

愛なのか、執念なのか――佐藤正午『月の満ち欠け』

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『月の満ち欠け』を思い返すと、まず「これは深い愛の物語なのか、それとも執念の物語なのか」という問いが浮かぶ。亡くなっても生まれ変わり、もう一度相手に会おうとする。時空を超えるSFのような面白さがある一方で、その思いの強さには少し怖さもあった。

僕は、生まれ変わりを扱う話は無条件に信じて読むほうだ。最初から「そんなことは起こらない」と線を引いてしまうより、もし記憶を持ったまま別の人生を生きる人がいたら、と考える。そのぶん、この物語で起こることも、単なる仕掛けとしては受け取れなかった。

子どもの言葉から始まる不気味さ

本書では、幼い子どもが、自分のものではないはずの過去の記憶を語る。大人が知らないことを知っている。その子の身体は確かに今を生きているのに、話していることは別の人生に属している。そこにまず不気味さを感じた。

幼い子どもの言葉だからといって、聞き流せる話ではない。もし本当なら、その子は誰なのか。目の前にいる子どもとして見ればいいのか、それとも、かつて失った誰かとして見てしまうのか。生まれ変わりを信じて読むほど、周囲の人がその言葉をどう受け止めるかも気になってくる。

生まれ変わっても会いたい

死によって会えなくなった相手に、もう一度会いたい。その願い自体は切実で、よくわかる。そこで終わらず、生まれ変わってなお相手を探すところに、この物語の強さがある。

一度きりの人生では果たせなかった思いを、次の人生へ持っていく。そう聞けばロマンチックだ。でも、前の人生の記憶が残っていたら、新しく始まった人生はどこまで自分のものなのだろう。今そばにいる人たちとの関係より、以前の人生で愛した相手を求める気持ちが強かったら、そこには切なさだけでなく怖さも生まれる。

生まれ変わりの仕組みを疑いながら読むのではなく、本当に起こっていることとして受け取る。すると、「再会できてよかった」と素直に言うだけでは済まなくなる。その思いを抱え続ける本人にも、巻き込まれる人たちにも、それぞれの人生があるからだ。

愛と執着の境目

読後に残ったのは、愛と執着はどこで分かれるのか、ということだった。相手を忘れないこと、もう一度会いたいと願うことは愛なのだと思う。けれど、何度生まれ変わっても相手を求め続けるとなると、その強さに圧倒される。

執着と呼べば、思いが持つ純粋さを切り捨ててしまう気もする。反対に、すべてを愛と呼べば、怖さまで美しいものとして片づけてしまいそうだ。僕には、どちらか一方に決められなかった。この物語に感じた魅力も、少しの恐ろしさも、そこから来ているのだと思う。

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