運は、あとから運だったと気づく――『運』を読んで
真夏、海に近い場所で打ち合わせがあった。先方は真っ黒に日焼けしていて、半袖のシャツがよく似合っていた。今にも走り出しそうな人だと思ったら、世間話でマラソンが趣味だと聞いた。
私もちょうどジョギングを始めたころだった。用件とは関係のない話なのに、妙に刺激を受けた。海が近くて、真夏で、こちらも少し浮かれていたのかもしれない。仕事の打ち合わせで出かけたのに、記憶に残っているのはそんな場面だったりする。
その話がきっかけでジョギングを始めた、というわけではない。すでに始めていたから、相手の言葉や姿が自分の中に入ってきたのだと思う。もし興味がなかったら、同じ話を聞いても、きっと打ち合わせが終わるころには忘れていた。
別のところでは、趣味のつもりで始めたことが、今では仕事を動かすものになっている。始めたときに、その使い道を考えていたわけではなかった。
こういうことがあると、何が仕事につながるかは、案外あとになるまで分からないものだと思う。
自分に関係のある話として聞く
安田隆夫さんの『運』を読んだとき、以前から感じていたことを言語化してもらった気がした。
運のいい出来事というと、何か分かりやすい幸運が突然やって来るような印象がある。でも私の場合は、過ぎてから「あの話がきっかけだったのか」と気づくことのほうが多い。
マラソンの世間話も、ただの雑談として聞けば、その場で終わる。自分も走り始めていたから、相手の話が心に残った。話そのものが変わったわけではない。受け取るこちらの目線が違うのだろう。
だからといって、身の回りのすべてを「自分ごと」にすればいいとも思わない。そこが難しい。
何を拾うかで、今の自分が分かる
気持ちが沈んでいるときは、よくない出来事まで過剰に自分のせいにしてしまう。「あれも自分が悪かったのでは」と考え始めると、関係のないことまで引き受けてしまう。
調子のいいときは、同じようなマイナスの出来事を素通りさせて、面白そうな話に目が向く。都合がいいといえば、そのとおりだ。でも、両方を同じ重さで抱える必要もない。
何が目に留まり、何を通り過ぎさせているか。私はそれを、自分の気持ちの向きを知る手がかりにすることがある。
下を向いていると感じたら、頭の中だけで前向きになろうとはしない。寝る。筋トレをする。散歩かジョギングに出る。私の場合は、そのほうが自然と陽の方を向ける。
もちろん、運がよくなるための決まった方法がある、という話ではない。ただ、見えるものが暗い方に偏っているとき、少し離れてみると、さっきとは違うものに気づくことがある。
あの日の世間話も、仕事につながった別の趣味も、最初から「これは運がいい」と思っていたわけではなかった。
少し気になったことを、すぐに「自分には関係ない」と閉じずにおく。そのくらいでいいのかもしれない。
運には、分かりやすい目印がついていない。たいてい、あとから振り返って名前をつける。
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