現実逃避ならぬ、常識逃避をしてみる――『行為のデザイン』思考法を読んで
ある会社の入力フォームを使っていたときのことだ。
郵便番号を入れても、住所は自動で表示されない。仕方なく住所を入力して部屋番号まで進むと、今度は数字を全角で入れるよう求められた。
ところが、その全角数字がなかなか出てこない。
住所の入力を助ける機能はないのに、部屋番号の文字形式だけは細かく指定される。「そこだけ厳しいのかいっ!」と、思わずツッコミを入れたくなる。
私はこういう場面に出会うと、すぐに文句を言いたくなる。
他社のフォームなら、利用者として引っかかった場所がよく見える。ここで迷う。これは面倒だ。この指定には何の意味があるのだろう。次々に気づく。
自分の癖は見えにくい
ところが、自分たちが作ったものになると、同じようにはいかない。
見慣れているし、使い方も知っている。どのボタンを押せばいいか、次に何が出るかも分かっている。そのため、本当は分かりにくい部分があっても、自然に通り過ぎてしまう。
他人の癖は見えるのに、自分の癖は見えにくい。それと少し似ている。
村田智明さんの『問題解決に効く「行為のデザイン」思考法』は、物やサービスそのものだけでなく、それを使う人の行動に目を向け、改善点や新しい形を探していく本だ。
読んだときは、事例を見るたびに「へえ」「なるほど」と感心した。
ただ、正直に言えば、いま具体的な事例を挙げろと言われても、ほとんど覚えていない。
それでも、残ったものはある。
こんなところから考えていいのか。ここまで自由に発想していいのか。自分が思っていたよりも、答えを探してよい範囲はずっと広いらしい。
そんな感覚だ。
もちろん、感心したからといって、すぐに同じ発想ができるわけではない。
本に載っている答えを見れば「なるほど」と思える。けれど、何もないところから自分でそこへたどり着こうとすると、なかなか出てこない。
考えれば考えるほど、常識的な案へ戻ってしまうこともある。
過去に見たもの。これまでうまくいったもの。周囲へ説明しやすいもの。実現できそうなもの。
そうした条件は、案を現実にするためには必要だ。ただ、考え始めた瞬間から全部を背負うと、自分で答えの範囲を狭くしてしまう。
現実逃避ならぬ、常識逃避
だから、ときどき常識から逃げてみる。
現実逃避ならぬ、常識逃避だ。
「普通ならこうする」という前提の外に、何か妙な答えが転がっているのではないか。そう考えると、少しワクワクする。
そこで、自分が無意識に置いている枠を探す。
本当にこの順番でなければならないのか。入力させる必要はあるのか。利用者に合わせてもらう前に、仕組みのほうを変えられないのか。
簡単には外れないので、半ば必死に考える。
その結果、毎回斬新な答えが出るわけではない。結局、普通の案に戻ることも多い。『行為のデザイン』を読んだから、突飛な発想を自在に再現できるようになったわけでもない。
それでも、「自分には思いつかない」で終わるのと、「まだ自分の枠から出られていないのでは」と考えるのとでは、次に見るものが少し変わる。
郵便番号から住所が入らないことも、部屋番号だけ全角を要求されることも、作る側には事情があるのかもしれない。
ただ、その事情に慣れてしまうと、入力する人の手が止まった瞬間は見えなくなる。
答えより先に、前提を疑う
良い答えを思いつく前に、まず自分が当然だと思っているものを疑う。
この本から残ったのは、具体的な正解ではなく、そのための許可だった。
もっと自由に考えていい。
そう思えるだけでも、常識の外を探しに行く理由にはなる。
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問題解決に効く「行為のデザイン」思考法