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『定年ゴジラ』を読んで · 読後エッセイ・街の記憶

街がなくなると、記憶の置き場所もなくなる――『定年ゴジラ』を読んで

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重松清の本は何冊か読んでいる。

細かい筋を忘れてしまっても、読み終えたあとに残るものは、どこか似ている。

人にはそれぞれ事情があり、うまく言葉にできないこともある。誰かを理解したからといって、抱えている問題がすべて解決するわけでもない。

それでも最後には、少しだけ温かい気持ちになる。

『定年ゴジラ』も、そんな一冊だった。

ニュータウンも、ニューではなくなる

正直に言えば、物語の細部はほとんど覚えていない。

それでも、住民と一緒にニュータウンが老いていく、という感覚は残っている。

新しく造られた街へ、同じような年代の家族が一斉に移り住む。子どもたちは同じ頃に学校へ通い、親たちは同じ頃に働き盛りを迎える。

そして何十年かたてば、住民は同じ頃に定年を迎え、街の建物や施設も同じように古くなっていく。

ニュータウンという名前なのに、いつまでもニューではいてくれない。

人が年を取るように、街にも年齢があるのだと思った。

数年ぶりに戻ると、街は一気に変わっている

私は転勤が多く、同じ土地に長く住み続けた経験があまりない。

何カ所かの地方都市で暮らし、離れ、数年たってから再び訪れることがあった。

同じ街に住み続けていれば、変化は毎日の景色へ少しずつ溶け込んでいくのだろう。

だが、数年ぶりに戻ると違う。

以前住んでいたマンションの前にあった公園が、なくなっている。

商店街にあった古い書店も消えていた。店先まで本を並べ、小路の景色の一部になっていたような店だった。

店が閉じただけではない。

小路ごと、商業ビルに変わっていた。

「ここ、だったよな」

そう思っても、以前の景色と現在の景色がうまく重ならない。

記憶の中では、書店も小路も今までどおりそこにある。ところが目の前には、まったく別の建物が立っている。

街のほうが先へ進み、自分の記憶だけが置いていかれたような気がした。

忘れないために見たはずなのに

もっと強くそう感じたのは、幼い頃に実家があった街を訪れたときだった。

かつて家族で暮らしたマンションが、建物ごとなくなっていた。

跡地に同じようなマンションが建て直されたわけでもない。区画が微妙に変わり、以前とは違う角度で、別のマンションが建っていた。

面影は、まったくなかった。

「本当に、ここだったか?」

周囲を歩きながら記憶をたどってみる。

入口はこの辺だったはずだ。こちら側に建物が延びていて、あの方向へ歩いていったはずだ。

ところが、確かめるものが何もない。

目を閉じて昔の景色を思い浮かべようとしても、さっき見た新しいマンションが割り込んでくる。

忘れないために見に来たはずなのに、新しい景色を見たことで、かえって昔の景色を思い出しにくくなってしまった。

そのうち、本当に忘れてしまうのだろうか。

そう思うと、少し寂しかった。

記憶を知っている人も少なくなる

20歳ごろから家族は別々に暮らすようになった。

あの街のことを話す機会も、ほとんどなくなった。

たまに弟と思い出話をするくらいだ。

「あそこに、あれがあったよな」

「そうそう、あの道を通った」

片方だけの記憶なら、いつか自信がなくなる。けれど、同じ景色を見ていた人が覚えていれば、「やっぱり、あったんだ」と思える。

建物がなくなっても、記憶を共有する人がいる間は、その場所は完全には消えないのかもしれない。

街にも、人にも、その後がある

『定年ゴジラ』を読んだのは、30歳前後の頃だった。

当時の私にとって、定年後の暮らしは、まだかなり遠い世界だったはずだ。

それでも、住民と一緒に街が老いていくという感覚だけは残った。

いま読み返せば、以前とは違うところで立ち止まると思う。

人は会社を離れ、子どもは家を出る。店は閉まり、建物は取り壊される。それまで自分の居場所だったものが、少しずつ形を変えていく。

その変化を止めることはできない。

けれど、なくなったものを覚えている人はいる。

重松清の小説を読むと、失われていくものを無理に元へ戻すのではなく、それを抱えた人たちが、また次の居場所を作っていくような温かさを感じる。

街は変わる。

記憶も、少しずつ曖昧になる。

それでも、弟と昔話をしている間だけは、なくなったマンションも、公園も、小路に本を並べた書店も、元の場所へ戻ってくる。

目を閉じたとき、新しいマンションより先に、あの頃の景色が浮かぶうちは。

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