「自分は大丈夫」と言い切れない――重松清『エイジ』
中学2年生のエイジが暮らす町で、連続通り魔事件が起きる。捕まった犯人は、エイジの同級生だった。
重松清さんの『エイジ』を思い出すと、事件そのものと同じくらい、教室の空気が残っている。誰と仲がいいか。誰と少し距離ができたか。周りにどう見られているか。大人になって振り返れば小さく見えることが、あの年頃には1日の気分を左右する。
読んでいて、自分の中学時代のことも重なった。理由をうまく説明できない苛立ちがあって、友達との距離を気にして、少し格好をつけてみる。まさに厨二病だな、と今なら笑えるところもある。でも、その渦中にいるときは、本人なりに真剣だったのだと思う。
同級生が犯人だった
町で起きた事件の犯人が、知らない誰かではなく同級生だった。その事実は、エイジの日常に入り込んでくる。学校に行けば同じ教室があり、友達と話す時間もある。事件が起きたからといって、毎日の生活がきれいに止まるわけではない。
そこが、この本の怖さでもあった。通り魔事件という大きな出来事のそばで、いつものように人間関係を気にしている。友達の言葉に引っかかったり、自分の態度を後から考えたりする。事件だけを取り出せば遠い話に思えても、それを受け止めるエイジの足元は、妙に身近だった。
犯人のしたことは、もちろん許されない。その線ははっきりしている。ただ、「あいつは自分たちとはまったく違う人間だ」と片づけたところで、僕にはすっきりしない。中学生の頃の、何に苛立っているのか自分でもわからない感じを覚えているからだ。そこから事件に至るまでには大きな隔たりがある。それでも、最初から何もかも別だと言い切るのは、少し怖い。
教室では、つい誰かの目を気にする
中学生の頃は、自分が何を思っているかと同じくらい、周りからどう見えるかが気になった気がする。何でもないような顔をしたい。少し冷めた態度を取ってみたい。本当は気になっていることほど、気にしていないふりをする。今思えば、ずいぶん面倒くさい。けれど、あの頃はそういう振る舞いが自分を守る方法でもあったのだろう。
エイジを読んでいると、その背伸びを「厨二病」の一言で笑って終わらせることもできなくなる。本人の中では、怒りも恥ずかしさも、友達にどう思われるかという不安も、全部同時に起きている。うまく言葉にできないまま、態度だけが先に出てしまうこともある。
教室の空気に合わせて、思っていないことを言ったり、言いたいことを飲み込んだりする。自分だけは流されない、とはなかなか言えない。あの年頃の自分にも、そういう弱さはあったと思う。だからエイジや周囲の子たちを、安全な場所から眺める気持ちにはなれなかった。
「自分は違う」と言い切れるだろうか
同級生が事件を起こしたと聞けば、なぜそんなことをしたのかと考える。そして同時に、自分とは違うと思いたくもなる。そう考えたほうが、少し安心できるからだ。
でも、『エイジ』を読んで残ったのは、その安心しきれない感じだった。犯人への共感というより、自分の中にも苛立ちや見栄、周りに流される弱さがあると知っていることの怖さだ。それがそのまま暴力につながるわけではない。そこを曖昧にはしたくない。それでも「僕は絶対に大丈夫」と、胸を張って言えるだろうか。
エイジも、すぐに答えを出せるわけではない。そのまま日常を過ごしながら、同級生のことや、自分自身のことを考える。僕がこの本を青春小説としても覚えているのは、事件を通して、揺れている14歳の時間が見えるからだと思う。
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エイジ