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『心はあなたのもとに』を読んで · 読書感想・書評

『心はあなたのもとに』村上龍|どれだけ金があっても、救えない命がある

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香奈子が死んだ。

村上龍の『心はあなたのもとに』は、冒頭でその事実を知らされる。

そこから始まるのは、富豪の遊び、酒、コールガール、豪遊。現実離れした、いかにも村上龍らしいハチャメチャな回想シーンだ。

投資組合を経営する西崎は、金も地位もあり、世界中を飛び回っている。

そんな派手な世界から、物語は少しずつ一人の女性との関係へと移っていく。

二人のやり取りは、メールが中心だ。

そして僕は、メールに記された送信日が気になって仕方がなかった。

日付が進んでいく。

二人の関係は深まっていく。

でも、それは同時に、冒頭で知らされた香奈子の死に近づいているということでもある。

メールの送信日を見るたびに、それが怖かった。

メールの送信日時が怖い

この小説でうまいなと思ったのが、メールの見せ方だ。

普通の文章として会話が続くのではなく、送信日時や宛先まで書かれていて、まるで実際のメール画面を見ているような感覚になる。

そして、どうしても送信日を見てしまう。

ああ、また日付が進んだ。

二人の距離が近づいていくのは嬉しい。でも、その日付は冒頭で知らされた香奈子の死にも近づいている。

メールが来るたびに、残された時間が減っていくような怖さがあった。

たぶん、あの形式だからこそ、時間が進むことをこれほどリアルに感じたのだと思う。

やがて香奈子は、西崎にとってかけがえのない存在になっていく。

あれほど派手に遊び回っていた男が、一人の女性からのメールを待つようになる。

二人をつないでいたのはメールだった

西崎が出会った香奈子は、1型糖尿病を患っている。

二人は同棲していない。西崎は仕事で忙しく、あちこち飛び回っている。

二人をつないでいるのは、ほとんどメールだけだった。

メールを重ねるうちに、西崎は香奈子の文章の誤字や語尾から体調の変化を察するようになる。

いつもと違う書き方をしている。何かあったのではないか。

返信が来ない。

しばらく待っても、まだ来ない。

普段は大きな金を動かし、冷静に仕事をこなす男が、たった一通のメールを待ちながら、仕事も手につかなくなってしまう。

あれほど自由に世界を飛び回っていた男が、メールの返信一つに振り回される。

その変化が堪らなかった。

純愛に似た関係になっていくのに、メールの送信日だけは容赦なく進んでいく。

金ではどうにもならない

西崎には財力がある。

香奈子の学費や生活費を援助することもできる。普通なら難しいことも、彼にはできる。

でも、病気の進行を止めることはできない。

そこが、何よりやるせなかった。

大きな金を動かしてきた男が、たった一人の大切な女性を前に、どうすることもできない。

お金があれば解決できることは、世の中にたくさんある。

けれど、それで病気が治るとは限らない。

香奈子の体調が悪化していくにつれ、西崎の無力さが伝わってきた。

そして、彼女は亡くなってしまう。

若くて、綺麗で、気立てもいい。

まだこれからの人生があるはずの人が、昏睡状態になり、短い時間のうちに息を引き取る。

あまりにもあっけない。

どれだけ金があっても、どれほど大切に思っていても、どうにもできないことがある。

そんな当たり前の、でも受け入れがたい現実を突きつけられた。

最期は孤独との戦いだったのだろうか

香奈子の最期を考えると、もう一つ、やりきれない気持ちになる。

二人はいつも一緒にいたわけではない。

西崎は忙しく、彼女の体調を知る手がかりはメールの文章だった。

誤字が増えた。語尾がいつもと違う。返信が来ない。

そんな小さな変化からしか、相手の状態を知ることができない。

香奈子自身はどんな気持ちだったのだろう。

病気と向き合いながら、誰かからのメールを待ち、自分の体調や気持ちを文章にして送る。

最期は、きっと孤独感との戦いでもあったのではないか。

そう思った。

もちろん、香奈子が実際に何を感じていたのか、僕にはわからない。

でも、だからこそ余計に虚しくなる。

何百通ものメールを交わしても、相手の苦しみを全部知ることはできない。

そして、ある日、もう返信が来なくなる。

読後に残ったのは、そんな空白だった。

知らなかった1型糖尿病

この本を読んで、1型糖尿病についても初めて意識するようになった。

糖尿病というと、生活習慣と関係の深い病気というイメージがあった。

でも、香奈子が患っている1型糖尿病は違う。

インスリンを作る膵臓の細胞が壊され、体内で必要なインスリンを十分に作れなくなる病気だ。生活習慣が原因で発症する病気ではなく、若い人にも起こる。

そんな病気があることを、僕はよく知らなかった。

村上龍も、あとがきで、あまり知られていない1型糖尿病についてもっと知ってもらいたいという思いを書いていたように記憶している。

この作品を読まなければ、そんな病気を抱えて生きている人の人生を考える機会もなかったかもしれない。

どの村上龍作品とも違う

村上龍の作品はずいぶん読んできたけれど、この小説はちょっと異質だった。

ほかに似た作品があったかな、と考えても、あまり思い浮かばない。

あの派手でハチャメチャな世界から始まって、メールの送信日を追いながら、一人の女性の死へと近づいていく。

恋愛小説とも、闘病小説とも、簡単には言い切れない。

たぶん、村上龍には1型糖尿病という病気をもっと多くの人に知ってほしいという思いがあって、それがこの独特な物語の形につながったんじゃないかと思う。

結果として、ほかのどの村上龍作品とも違う一冊になった。

そして、それでよかったんだと思う。

少なくとも僕は、この本を読んで、これまでよく知らなかった病気や、そんな病気を抱えて生きる人の人生を知った。

あのやるせない読後感も含めて、手に取ってよかったと思っている。

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