文章のなかに人影が見える――『文章のみがき方』を読んで
文章を読んでいると、ときどき何かが視界を横切る。
もちろん、本当に何かが見えるわけではない。
誤字を見つけたわけでも、数字の間違いに気づいたわけでもない。まだ違和感と呼べるほど、はっきりしていない。
それでも、何かがいる気がする。
暗い場所で人影のようなものが見え、思わず二度見する感覚に少し似ている。
そんな気配があると、そのまま先へは進めない。少し前へ戻り、気になった箇所の周辺を何度か読み返す。
何が引っかかったのか。前後の説明が食い違っているのか。言葉が強すぎるのか。それとも、この文章を読む人が置かれている状況と、書き手の態度が合っていないのか。
答えを探すとき、まず言葉を別の表現へ置き換えることはしない。
置き換えるのは最後だ。
先に、想定している読者の位置へ移動して、もう一度読む。
売り手の文章なのに、偉そうだ
以前、ある提案文を読んでいて、そんな気配を感じたことがある。
書かれている内容そのものは、間違っていなかった。言葉遣いが乱暴だったわけでもない。それなのに、妙に偉そうに見えた。
提案する側、つまり売り手の文章なのに、相手の事情を知っているかのように決めつけていた。
行間から「私は百戦錬磨です」「これくらい知っています」という雰囲気も伝わってくる。知識が相手を助けるためではなく、書き手の経験を示すために並べられているように感じた。
自分が受け手なら、「それなら要らない」と言いたくなる。
敬語を増やして、ひたすらへりくだればよいわけではない。丁寧すぎれば、今度はかえって不自然になる。
問題は言葉の表面より、書き手が相手との間にどんな位置関係を作っているかだった。
そこが分かって、初めて言葉を置き換えられる。
言葉の温度を見直す
辰濃和男さんの『文章のみがき方』を読んだとき、推敲という作業の深さに驚いた。
言い回しが変われば、同じ内容でも伝わる温度が変わる。どんな比喩を選ぶかで、読み手の頭に浮かぶ景色も変わる。漢字で書くか、ひらがなで書くか。それだけでも、文章の硬さや距離感は違ってくる。
文章を直すというと、余分な言葉を削ったり、読みやすい順番に並べたりする作業を想像しやすい。
もちろん、それも必要だ。
ただ、推敲は正しい文章へ修理するだけの作業ではないのだと思う。
書き手がどんな表情で話しているように見えるか。読み手の事情をどこまで想像しているか。相手に近づきすぎていないか、逆に遠くから教え諭していないか。
そうしたものまで、文章には出る。
単純な誤字なら、見つけた瞬間に直せる。数字の矛盾にも正解がある。
難しいのは、間違いではないのに、目的を邪魔している文章だ。
売るための文章が相手を遠ざけ、安心してもらうための説明が不安を強める。書いた本人には自然に見えるため、気づきにくい。
違和感の手前で立ち止まる
だから私は、違和感になる前の気配をなるべく見逃さないようにしている。
一度通り過ぎたあと、少し戻って二度見る。
原因が分かるまで周辺を反芻し、想定読者の位置から読み直す。それからようやく、削るのか、言い換えるのか、順番を変えるのかを考える。
良い文章とは何かを、一言で決めることはできない。
ただ、文章をみがくとき、言葉だけを見ていては見つからないものがある。
その向こうにいる読者と、言葉の手前に立っている書き手。その二人の姿まで見ようとしたとき、文章の違和感はようやく正体を現す。
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